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イエスとは誰なのか、なぜ人類の間に生まれたのか。これが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が答えようとしている問いである。マタイの福音書がイエスの起源をダビデ王の先祖から説明することから始めるのに対し、ヨハネの福音書はイエスの神の起源を説明することから始める。ヨハネは、イエスは人類に対する神の啓示であり、子なる神であると説明する。ヨハネの福音書を通して、ヨハネは、人間が霊的な命を受けることができるのはイエスによってのみであると説明する。そして、その霊的な命は、イエスを御子なる神として信じる者にのみ与えられるのである。
I. イエスは永遠の御子なる神であり、私たちの創造主であり、光といのちの与え主であ る(ヨハネ1:1-5)。
初め に ことば が あっ た。 ことば は 神 とともに あっ た。 ことば は 神 で あっ た。この 方 は、 初め に 神 とともに おら れ た。すべて の もの は、 この 方 によって 造ら れ た。造ら れ た もの で、 この 方 に よら ず に でき た もの は 一つ も なかっ た。この 方 には いのち が あっ た。 この いのち は 人 の 光 で あっ た。光 は 闇 の 中 に 輝い て いる。 闇 はこれ に 打ち勝た なかっ た。
第1章で、ヨハネは光、闇、真理、証し人、世界といった概念を紹介しているが、これらはヨハネがイエスの物語を語る中で展開していくテーマである。しかし、ヨハネがこの序章で用いている概念には、この後、再び論じることのないものがある。ヨハネはこの箇所だけで、イエスを “御言葉 “と呼んでいる。これは、”みことば “が何を意味するのか、私たちがすでに知っているはずだということを暗示している。もちろん、”ことば “とは、神がこれまで伝えてきたこと、伝えることができること、そしてこれからも伝えるであろうことすべてを指す。何千年もの間、旧約聖書は “御言葉 “の意味を定義してきた。
神の言葉は、創造、摂理、贖い、裁きという神の業を成し遂げるものである。ヨハネはイエスを “神の言葉 “と呼んでいるので、神の言葉は、子なる神イエスが誰であるかということと切り離すことはできない。神の言葉は、神が御心に従って行動し、そのすべての計画と目的を成し遂げる力である(使徒2:23、エペソ1:11)。しかし、神の言葉は盲目的な力や生の力ではないし、ペンテコステ教会が罪深く教えているように、私たちの言葉がその力を封じ込めるものでもない。なぜなら、神の言葉は神が誰であるかに結びついており、神が誰であるか、神の知恵、神の栄光を表現する神の個人的で意味のある方法だからである(詩篇104:24)。神の言葉によって、神は万物を創造された(創世記1:3、ヨハネ1:1-3、ヘブル11:3)。神は被造物を摂理的に支配し、御言葉によって物事を命じられる(創世記1:9, 11, 22; 8:21-22; ヨブ記37:12; 詩篇18:15; 33:11; 147:15-18; マタイ8:27; ヘブル1:3)。神は御言葉によって宇宙を裁かれ、同じ御言葉によってイエスを信じる人々を贖われる。神は福音の宣教によって人々を効果的に呼び寄せ、その言葉によって人々をご自身のもとに救われる。神の言葉には、罪のために霊的に死んでいた人々を生かし、復活の命をもたらす力がある(ローマ6:1-4、エペソ2:1-7)。永遠の天使たちが目撃したように、神が世界を創造される以前から、神は永遠の過去において、御言葉に従って万物を計画されていた。宇宙が創造される前から、神の三位一体の位格は、それぞれの特徴的な役割に従って、選民の贖いを計画し、実行することに合意していた。神の言葉はまた、聖書として私たちに伝えられ、その中で神の言葉は個人的で、意味深く、権威あるものである。私たちの人生におけるあらゆる問題は、聖書の中の神の言葉に私たちがどう反応するかにかかっている。聖書から、神が私たちと愛を分かち合うとき、私たちはそれを大切にする義務がある。聖書を通して神が私たちに問いかけるとき、私たちはそれに答える道徳的責任がある。聖書を通して神が恵みを示されるとき、私たちは神を信頼する義務がある。聖書を通して主がご自分の望みを語られるとき、私たちは自分の人生をそれに合わせるべきです。聖書を通して主がその知識と意図を語られるとき、私たちはそれが真実であると信じるべきです。聖書全体を通して、創造の最初の行為から新しい創造に至るまで、神は語られ、人間は神の被造物として、神との契約関係のために創造された者として、信仰、愛、信頼、従順をもって応答しなければならない。神の言葉は権威あるものだ。例えば、エデンの園で、神はアダムに命令によって語りかけ、アダムの全生涯と将来は、神の言葉に対する彼の応答にかかっていた(創世記2:16-17)。アダムが背き、全人類が罪に堕ちた後、人類が神の怒りから救われる唯一の望みは、神が将来の救いを約束する言葉を与えることだった(創世記3:15)。ノアは神の裁きが来ることを知るために、神の言葉を信じなければならなかった。信仰の模範として私たちに称賛されているアブラハムは、盲目的な信仰を持っていたのではなく、神が彼に契約の約束を与えたとき、神の言葉を信じていた(創世記12:1-3)。イスラエルは契約の律法を与えられ、神が約束し命じられたすべてを信頼し、従うように命じられた(申命記6章、ヨシュア記1:8-9章、詩篇1篇、119篇)。律法の後、神は預言者たちを通しても語られた。預言者たちは神の言葉を語ったので、その言葉は権威があり真実であった。そして何よりも、新約聖書において、イエスは神の言葉の完全な啓示として来られた。イエスは旧約聖書のすべての戒律と命令に完全に従われたので、旧約聖書における神の言葉、そして神の言葉としてのイエスが絶対的な権威を持っていることが確認されたのである。御子である神、肉となられた御言葉であるイエスは、天と地におけるすべての権威を持っている(ヨハネ1:1、14、マタイ28章)。しかし、人間になることで、イエスは罪深い存在にはならなかった。人間の肉体は本質的に罪深いものではないからだ。彼は人間になったが、聖霊なる神の働きによって、イエスが宿ったとき、マリアの罪の性質がイエスに受け継がれることはなかった。それゆえ、イエスが語られるとき、その言葉は罪によって汚されておらず、その言葉は権威あるものであり、受け取り、信じ、従わなければならない。もし私たちがイエスの言葉を拒むなら、それは神ご自身の言葉を拒むことになる。イエスの言葉を受け取り、それに従わなければ、私たちには命も救いもない。その代わりに、私たちはイエスの権威ある裁きの言葉の下に立つのだ(マタイ7章、マルコ8章、ルカ8章、9章、ヨハネ6章、8章、12章、14章、17章、テモ6章3節、ヨハネ2章、3章、5章、ヨハネ2章6節、黙示録12章、14章)。さらに、イエスは使徒たちに委託され、聖霊なる神の働きによって、新約聖書における彼らの言葉も権威ある真実なものであり、信じて従わなければならない。神の言葉は神から出たものであるため、力強く権威がある。神の言葉は神から出たものであるから、失敗することはなく、私たちを迷わせることもない。神の言葉は神を啓示し、神の御霊は御言葉が読まれるときに臨在される。神の言葉に出会うとき、私たちは神の栄光のすべてと出会う。みことばなしに神に出会うことはできないし、神なしにみことばに出会うこともできない。この二つは切り離すことができない。
つまり、1節でヨハネがイエスを「言葉」と呼んでいるのは、イエスが人類に対する神の完全な啓示であることを意味している。イエスは、人間とともにおられる権威ある御子神ご自身なのです。イエスが語るとき、それは神が語ることである。イエスが何かをなさるとき、それは神が何かをなさることです。イエスが礼拝されるとき、それは神が礼拝されるのである。
ヨハネの福音書の最初の文章は、聖書の冒頭の文章とよく似ている。最初の2節で、ヨハネは、御言葉は常に存在し、父なる神と最も近い関係にあり、御言葉自身が神であると述べている。ヨハネは、神は「言」によって万物を創造されたと説明する。この章の後半でイエスが「言」と定義されていることから、イエス自身が肉体的・霊的な光、肉体的・霊的な命を与えることを意味する。イエスが誰かを癒したり、話したり、永遠の命を与えたりするとき、それは神が働いておられるのである。光であるイエスが暗闇に入るということは、やはりイエスが不信仰な人類の間に住まわれるようになったということです。 したがって、イエスの生涯の物語を読むとき、イエスに対する反対は厳しく、イエスに反対する人々はイエスを打ち負かそうとすることが予想される。しかし、彼らは失敗する。ヨハネの福音書が示すように、イエスが十字架上で死ぬという敗北のはずの出来事でさえ、イエスが十字架上で死んだ3日後に死から復活することによって死に打ち勝ったのだから、究極的な敗北ではなく、神の栄光をもたらす結果となったのである。
II. 光であるイエスは、不信仰な人類の暗闇の中に入ってこられた。しかし、ある者は信じ、永遠の命を与えられた(ヨハネ1:9-14)
すべて の 人 を 照らす その まこと の 光 が、 世 に 来よ う と し て い た。この 方 は もと から 世 に おら れ、 世 は この 方 によって 造ら れ た のに、 世 は この 方 を 知ら なかっ た。この 方 はご 自分 の ところ に 来ら れ た のに、 ご 自分 の 民 は この 方 を 受け入れ なかっ た。しかし、 この 方 を 受け入れ た 人々、 すなわち、 その 名 を 信じ た 人々 には、 神 の 子ども と なる 特権 を お 与え に なっ た。この 人々 は、 血 によって では なく、 肉 の 望む ところ でも 人 の 意志 に よっ てでも なく、 ただ、 神 によって 生まれ た ので ある。 ことば は人 と なっ て、 私 たち の 間 に 住まわ れ た。 私 たち は この 方 の 栄光 を 見 た。 父 のみ もと から 来ら れ た ひとり 子 として の 栄光 で ある。 この 方 は 恵み と まことに 満ち て おら れ た。
イエスはまことの光と呼ばれ、あらゆる偽りの光と比較したとき、イエスが本物の光であることを肯定している。そして、光であるイエスはこの世に来られた。この章においてヨハネは、イエスが光であり、人類の世界に来られたにもかかわらず、彼らは真の光を認めず、真の光を受け入れなかったということを意味している。それどころか、ユダヤ人は真の光を拒絶した。イエスが拒絶され、敵意を受けることを知りながら、不信仰な人間の間に来て生きてくださるという考えは、神の恵みを示すものである。ユダヤ人たちは、ローマの圧政から解放してくれる軍事的な王を求めていた。彼らは、自分たちを罪と死と神の怒りから導いてくれる王を望んでいなかった。彼らは、今のところ主に霊的な王国である王国を樹立しようとする王を望まなかった。しかし、イエスがユダヤ人に拒絶されることを知っていたとしても、状況は絶望的ではなかった。ユダヤ人の中にも、異教徒の中にも、イエスを受け入れた人々がいた。彼らはイエスの名を信じ、イエスが誰であり、何を成し遂げられたかを信じた。イエスを信じる者は神の子どもとなる。驚く人もいるかもしれないが、ローマ・カトリック教会が罪深く教えているように、すべての人間は神の子ではない。不信仰を悔い改め、イエスを信じる者だけが神の子どもとなるのだ。実際、ヨハネによる福音書のこの箇所が説明しているように、イエスを信じる者だけが、上から霊的な誕生を与えられたのである。神から霊的な誕生を与えられた者は、先祖によって霊的な誕生を与えられたのでもなく、自分の罪深い欲望によって霊的な誕生を与えられたのでもない。自由意志によって霊的な誕生を与えられるのでもない。そうではなく、神によって霊的な誕生を与えられるのだ。そして、神は被造物から切り離されたままではなく、肉となって、肉体の人間となって、私たちの間に住まわれた。宿った」という言葉には、旧約聖書からあらかじめ意味が込められている。 旧約聖書で、神が契約の民の間に住まわれた幕屋(出エジプト記25:8-9; 33:7)に使われているのと同じ単語が、この節で「住まわれた」に使われている。これは、旧約聖書における幕屋がイエスの到来を予表するものであり、神が人間を見下して契約の民の間に住まわれることを望んでおられることを示している。しかし、御子なる神が人間となられた時、神でなくなられたわけではない。イエスは御子なる神としての栄光を保っておられた。父なる神によって遣わされた子なる神であるがゆえに、イエスはその光、神が誰であるかを私たちに示す能力を保持されたのである。さらに、イエスは恵みと真理の完璧なバランスを保っておられる。旧約聖書では、恵みと真理は神の民に神の契約の誠実さを伝えていた(出エジプト記34:6)。イエスは、神の言葉として天においても地においても権威があることを証明する奇跡を行い、その言葉によって神の栄光を示された。
クリスチャンにとって、この章は大きな希望を与えてくれる。クリスチャンは聖書からも、また苦い経験からも、暗闇(不信仰な人類)は依然としてキリストの光を拒み続け、状況によっては私たちの命を脅かすことさえあることを学んでいる(ヨハネ16:2)。しかし、イエスの光はそれに関係なく輝いているのだから、そんなことは問題ではない。イエスの恒久的な光と、永遠の命を与えるイエスの能力こそが、キリストを信じる者の永遠がイエスとともに確かなものであることを保証しているのだ。イエスは宇宙を創造し、私たちに永遠の命を与える神的な力を持っておられるので、イエスを信じる者がその一部とされる新しい創造を確立する神的な力も持っておられ、その神的な力によって、私たちの永遠の未来がイエスとともに永遠に保証されるのです。人間の堕落は暗い背景を作り出し、そこにイエスにおける神のいつくしみと私たちに対する神の恵みがはっきりと見える。イエスの到来による神の介入は、人類にとって唯一の希望の可能性である。イエスは人類のすべてを理解し、私たちのところに来てくださる。それどころか、イエスは、イエスを信じる男女を変え、神の子となり、ますますイエスのようになるように力を与えてくださる。暗闇にもかかわらず、イエスの光が人類の暗闇を照らし、私たちに光と命をもたらしてくださる、これは大きな希望です。希望の可能性を人類や教育、政府に求める人もいる。また、人類の闇を見ても希望が見えず、絶望を感じる人もいる。しかし、2000年前、あの赤ん坊のイエスが暗闇の中に生まれたとき、光と命と希望が訪れた。赤子にすぎなかったにもかかわらず、彼は命と光をもたらし、その生涯の物語の中で、私たちに神を啓示した。悔い改め、イエスを主であり救い主として信じる信仰を今日持ちなさい。
天の父なる神様、暗闇に打ち勝つ光、永遠の命を与える神聖な力を持つお方、イエスを感謝します。私たちが主の光の中を歩み、その光を他の人々と分かち合い、その神の力に信頼する力をお与えください。あなたの御言葉によって私たちを造り変え、私たちが人々に悔い改めてイエスへの信仰を持ち、イエスに従うことを教えるとき、恵みと真理の器となる力を与えてください。アーメン。
Who is Jesus and why was he born among humanity? This is the question that the four gospels, Matthew, Mark, Luke, and John, set out to answer. While Matthew’s gospel starts by explaining the origin of Jesus from King David’s ancestry, John’s gospel starts by explaining the divine origin of Jesus. John explains that Jesus is the revelation of God to humanity, God the Son. Throughout John’s gospel, John explains that it is only by Jesus that humans can receive spiritual life. And that spiritual life is only given to those who have faith in Jesus as God the Son.
I. Jesus is God the Son from eternity, our Creator and the giver of light and life (John 1:1-5)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was in the beginning with God. All things were made through him, and without him was not any thing made that was made. In him was life, and the life was the light of men. The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome it.
In chapter 1, John introduces concepts such as light, darkness, truth, witness, and the world, which are themes that he develops as he tells the story of Jesus. However, there is a concept that John uses here in the introduction that he does not discuss again later in the book. Only in this section, John calls Jesus “the Word.” This implies that we should already know what “the word” means. Jesus being called “the Word” is more complex than that. The Word is of course, everything that God has ever communicated, can communicate, and will ever communicate. For thousands of years, the Old Testament had defined what “The Word” meant.
God’s Word is what accomplishes God’s works of creation, providence, redemption, and judgment. Because John calls Jesus “God’s Word,” God’s Word cannot be separated from who Jesus, God the Son, is. The word of God is the power by which God acts and accomplishes all his plans and purposes according to his will (Acts 2:23; Ephesians 1:11). But God’s Word is not a blind force or a raw power, and our words do not encapsulate that power like the word-of-faith movement sinfully teaches, because God’s Word is bound up in who God is, and is God’s personal and meaningful way of expressing who He is, His wisdom, and His glory (Psalm 104:24). By God’s Word, He created all things (Genesis 1:3; John 1:1-3; Hebrews 11:3). God rules providentially over his creation and commands things to happen by his word (Genesis 1:9, 11, 22; 8:21-22; Job 37:12; Psalm 18:15; 33:11; 147:15-18; Matthew 8:27; Hebrews 1:3). God judges the universe by his word and redeems those who have faith in Jesus by that same word. God effectually calls people by the preaching of his gospel, saving them to himself by his word. God’s word has the power to make alive people who were spiritually dead in their sins, thus resulting in resurrection life (Romans 6:1-4; Ephesians 2:1-7). Even before God created the world, which the everlasting Angels witnessed, in eternity past God had planned all things according to his word. Before the universe was ever created, the triune persons of God agreed to plan and execute the redemption of the elect, according to their distinctive roles. God’s word has also been delivered to us as the Bible, in which his speech is personal, meaningful, and authoritative. Every single issue in our lives depends upon how we respond to God’s word in the Bible. From the Bible, when God shares his love with us, we have the obligation to treasure it. When he questions us through the Bible, we are morally responsible to answer him. When he expresses his grace through the Bible, we are obligated to trust him. When he tells us his desires through the Bible, we should conform our lives to them. When he shares his knowledge and his intentions through the Bible, we ought to believe that they are true. Throughout the entire Bible, from the first act of creation unto the new creation, God speaks, and humans, as God’s creatures, created for a covenant relationship with God, are to respond with faith, love, trust, and obedience. God’s Word is authoritative. For example, in the Garden of Eden, God spoke to Adam by a command, and his entire life and future depended upon his response to God’s Word (Genesis 2:16-17). After Adam disobeyed and all humanity fell into sin, the only hope for mankind to be saved from God’s wrath was for God to give a word of promise of future salvation (Genesis 3:15). Noah had to believe God’s Word to know that divine judgment was coming. Abraham, who is commended to us as a model for faith, did not have blind faith, but had faith in God’s Word as God gave him covenant promises (Genesis 12:1-3). Israel was given the covenant law, and was commanded to trust and obey all that God promised and commanded (Deuteronomy 6; Joshua 1:8-9; Psalm 1; 119). After the covenant law, God also spoke through the prophets, whose word was authoritative and true because the prophets spoke God’s Word. And then, best of all, in the New Testament, Jesus came as the fullest revelation of God’s Word. Jesus perfectly obeyed every precept and command of the Old Testament, which confirmed that God’s Word in the Old Testament, and Jesus as God’s Word had absolute authority. Jesus, God the Son, the Word made flesh, has all authority in Heaven and Earth (John 1:1, 14; Matthew 28). By becoming human, however, Jesus did not become sinful. That is because physical human body is not inherently sinful. He became a human, and yet by the work of God the Holy Spirit, Mary’s sin nature was withheld from being passed onto Jesus when he was conceived. Therefore, when Jesus speaks, his words are not tainted by sin, and his words are authoritative, and must be received, believed, and obeyed. If we reject Jesus’s words, we reject the words of God himself. Apart from receiving and obeying Jesus’s words, we have no life or salvation; instead, we stand under his authoritative word of judgment (Matt 7; Mark 8; Luke 8; 9; John 6; 8; 12; 14; 17; 1 Tim 6:3; 1 John 2; 3; 5; 2 John 6; Rev 12; 14). Furthermore, Jesus commissioned his apostles, and by the work of God the Holy Spirit, their words in the New Testament are also authoritative and true and must be believed and obeyed. God’s Word is powerful and authoritative because it comes from God. God’s Word will not fail, and it will not lead us astray, because it is from God. God’s word reveals God, and God’s Spirit is present when he word is read. When we encounter God’s word, we encounter God in all his glory. We cannot encounter God without the word, and we cannot encounter the word without God. The two are inseparable.
All this is to say that in verse 1, when John calls Jesus “the word,” it has utmost significance, because it means that Jesus is God’s fullest revelation of himself to humanity. Jesus is the authoritative God the Son himself dwelling with humans. When Jesus speaks, it is God speaking. When Jesus does something, it is God doing something. When Jesus is worshiped, it is God worshiped.
The first sentence of John’s gospel sounds a lot like the opening sentences of the Bible. In the first two verses, John says that the Word has always existed, and is in the closest possible relationship with God the Father, and is himself God. John explains that God created all things through “the Word”. Since Jesus is defined as “the word” later in this chapter, it means that Jesus himself gives physical and spiritual light, and physical and spiritual life. When Jesus heals or speaks or gives life eternal to someone, it is God at work, just as God worked at the creation of the universe. When Jesus, the light, enters the darkness, it again means Jesus came to dwell among unbelieving mankind. Therefore, we can expect that when we read the story of Jesus’s life, the opposition against Jesus is going to be severe, and those who are opposed to him will try to defeat him. But they will fail. As John’s gospel will show, even the supposed defeat of Jesus when he dies on the cross was not an ultimate defeat, but resulted in God’s glory, because Jesus overcame death through his resurrection from the dead three days after his death on the cross.
II. Jesus the Light entered the darkness of unbelieving humanity. But some believed to whom he gave life eternal (John 1:9-14)
The true light, which gives light to everyone, was coming into the world. He was in the world, and the world was made through him, yet the world did not know him. He came to his own, and his own people did not receive him. But to all who did receive him, who believed in his name, he gave the right to become children of God, who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. And the Word became flesh and dwelt among us, and we have seen his glory, glory as of the only Son from the Father, full of grace and truth.
Jesus is called the true light, which affirms that Jesus is the authentic light when compared to every false light. And Jesus, being the light, came into the world. In this chapter, John means that even though Jesus is the light, and came into the world of humanity, they did not recognize the true light or accept the true light. Instead, the Jews rejected the true light. The idea that Jesus would come and live among unbelieving humanity even though he knew he would be rejected and suffer hostility is a demonstration of God’s grace. The Jews wanted a military King who would free them from the oppression of Rome, not a King who would come lead them out of their sins, death, and the wrath of God and establish a kingdom that for now is primarily a spiritual kingdom. However, even though Jesus knew he would be rejected by the Jews, the situation wasn’t hopeless. There were some people who were Jewish, and some people who were from the pagan nations, who received Jesus. They believed upon his name, trusting in who he was and what he accomplished. Those who believe in Jesus become God’s children. It might be a surprise to some, but all humans are not God’s children, like the Roman Catholic church sinfully teaches. Only those who repent of their unbelief and have faith in Jesus become God’s children. In fact, as these verses of John’s gospel explain, only those who have faith in Jesus were given spiritual birth from above. They were not given spiritual birth by their ancestors, or by their own sinful desires, or because of their free will, but they were given spiritual birth by God. And God did not remain separate from his creation, but he became flesh, he became a physical human, and dwelt among us. The word for “dwelt” is preloaded with meaning from the Old Testament. The same word that is used in the Old Testament for the tabernacle, which is where God dwelt among his covenant people (Exodus 25:8-9; 33:7), is the same word used for “dwelt” in this verse. This indicates that the tabernacle in the Old Testament was a foreshadow of the coming of Jesus, showing us that God has a desire to condescend to humanity and live among his covenant people. However, when God became a human, he did not cease from being God. Jesus still retained his glory as God the Son. He retained his light, his ability to show us who God is because he is God the Son, sent by God the Father. Furthermore, Jesus is the perfect balance of grace and truth. In the Old Testament, grace and truth communicated God’s covenant faithfulness to God’s people (Exodus 34:6). Jesus showed God’s glory by the things he said, by the miracles he did which proved that as God’s Word, he has authority in heaven and on earth.
For the Christian, this chapter gives us great hope. Christians learn both from the Bible and from bitter experience that the darkness (unbelieving humanity) still continues to reject the light of Christ and can even threaten our lives in certain circumstances (John 16:2). However, that does not matter, because the light of Jesus shines on regardless. It is the permanent light of Jesus and his ability to give life eternal that guarantees that the eternity of those that have faith in Christ is secure with him. Because Jesus has divine power to create the universe and to give us life eternal, he also has divine power to establish the new creation of which believers in him are made a part, and his divine power secures our eternal future with him forever. The depravity of humanity creates a dark background into which the goodness of God and his grace towards us in Jesus can be clearly seen. God’s intervening by the coming of Jesus is the only possibility of hope for humanity. Jesus understands everything that humanity is, and he comes to us, and yet the darkness of humanity cannot overcome Jesus. Instead, Jesus empowers men and women who have faith in him to be changed, to become God’s children, and to become more and more like Jesus. This is great hope, that despite the darkness, the light of Jesus has shined upon the darkness of humanity to bring light and life to us. Some people look to humanity, education, or the government for the possibility of hope. For others, they look at the darkness of humanity and don’t see any hope and feel despair. However, light and life and hope have come, 2000 years ago, when that baby Jesus was born into the darkness. Even though he was but a baby, he brought life and light, and in the story of the rest of his life, he reveals God to us. Repent, and begin to have faith in Jesus today.
Heavenly Father, Thank you for Jesus, the Light that overcomes darkness, the one who has divine power to give life eternal. Grant us the strength to walk in His light, share it with others, and trust in its his divine power. Transform us by your Word and empower us to be vessels of grace and truth as we teach people to repent and have faith in and obey Jesus. Amen.