ENGLISH FOLLOWS THE JAPANESE
ヤコブ の 手紙 2:10 律法 全体 を 守っ ても、 一つ の 点 で 過ち を 犯す なら、 その 人 は すべて について 責任 を 問わ れる から です。 11 「姦淫 し ては なら ない」 と 言わ れ た 方 は、「 殺し ては なら ない」 とも 言わ れ まし た。 です から、 姦淫 し なく ても 人殺し を すれ ば、 あなた は 律法 の 違反 者 に なっ て いる の です。
マラキ書が書かれたのは、ネヘミヤがエルサレム周辺の城壁を再建し、共同体が宗教改革を行った100年近く後のことです。旧約聖書の最後の書物です。従って、マラキ書は新約聖書への移行部なのです。新約聖書の出来事は、マラキ書の出来事からわずか400年後のことです。マラキ書の要点は、再び中途半端な宗教に陥ってしまった神の民に、神の民が神の掟に従わないときには神の裁きが下るが、神の掟に従う者には神の祝福が下ることを思い起こさせることです。神の旧約の民が信じていた罪深い誘惑とは、神を信じる信仰生活は、宗教的な重荷に苦しむ生活であるというものでした。この間違った考え方が、お金の使い方、結婚の仕方、家族の育て方、生き方に罪を犯させました。預言者マラキは、神の民を驚かせるために風刺的に書き、彼らの罪を暴き、彼らの考え方や望んでいることを変え、神が誰であるか、神が命じられたことに従って生きるように説得しました。
1. 邪悪な者は、個人的な繁栄を得ようとして献金をやめる(マラキ3:7-12)
7 あなた がた の 先祖 の 時代 から、 あなた がた は わたし の 掟 を 離れ、 それ を 守ら なかっ た。 わたし に 帰れ。 そう すれ ば、 わたし も あなた がた に 帰る。 ─ ─ 万 軍 の 主 は 言わ れる ─ ─ しかし、 あなた がた は 言う。 『どの よう に し て、 私 たち は 帰ろ う か』 と。 8 人 は、 神 の もの を 盗む こと が できる だろ う か。 だが、 あなた がた は わたし の もの を 盗ん で いる。 しかも、 あなた がた は 言う。 『どの よう に し て、 私 たち は あなた の もの を 盗ん だ でしょ う か』 と。 十 分の 一 と 奉納 物 に おい て だ。 9 あなた がた は、 甚だしく のろわ れ て いる。 あなた がた は、 わたし の もの を 盗ん で いる。 この 民 の すべて が 盗ん で いる。 10 十 分の 一 を ことごとく、 宝物 倉 に 携え て 来 て、 わたし の 家 の 食物 と せよ。 こうして わたし を 試し て み よ。 ─ ─ 万 軍 の 主 は 言わ れる ─ ─ わたし が あなた がた の ため に 天 の 窓 を 開き、 あふれる ばかりの 祝福 を あなた がた に 注ぐ か どう か。 11 わたし は あなた がた の ため に、 食い荒らす もの を 叱っ て、 あなた がた の 大地 の 実り を 滅ぼさ ない よう に し、 畑 の ぶどう の 木 が 不作 と なら ない よう に する。 ─ ─ 万 軍 の 主 は 言わ れる ─ ─ 12 すべて の 国々 は、 あなた がた を 幸せ 者 と 言う よう に なる。 あなた が た が 喜び の 地 と なる から だ。 ─ ─ 万 軍 の 主 は 言わ れる。
神の民がこの悔い改めの呼びかけを聞く必要があったのは、彼らがまだ罪深いやり方を変えていなかったからです。民は神殿で宗教的な働きをする祭司を支えるためにささげることを怠り、社会の貧しい人々を助けることも怠っていました(民数記18:31; 申命記14:28-29)。旧約の律法に従って命じられた献金は、単に金銭的な献金だけではありませんでした。農作物の十分の一(レビ27:30-22、申命記12:6,11,17)、収入の十分の一を祭司とレビ人に(民数記18:21-32)、三年目の十分の一を社会的に恵まれない人々に与えることが義務付けられていました(申命記14:28-29、26:12-15)。gimuの一は、ヤハウェが全地の神であり、その民を養うことを認めるものでした。民はまた,自由意志によるささげ物も捧げることができました。自由意志によるささげ物とは,農作物,物資,個人の貴重品など,自発的なささげ物であり,主やその神殿への強制的な贈り物でした(出エジプト記25:2; 29:27; 民数記5:9; 31:29; 申命記12:6)。自由意志によるささげ物は、神が善良で寛大であるゆえに、神への感謝のささげ物として捧げられたものです。献金に関する神の掟に従わなかったために、彼らは旧約の呪いを受けました(申命記28章)。もし彼らが悔い改めるなら、神は彼らを回復させ、旧約で約束された祝福に従って祝福することを約束されました。その祝福には、土地に豊かな雨を降らせて彼らの農業を繁栄させ、近隣の国々が彼らに注目し、彼らを祝福された者と呼ぶことも含まれていました。
今日、私たちは旧約の下にはいません。旧約の律法はイエスを通して私たちにもたらされますが、しばしば新しい、思いがけない形でもたらされます。私たちはもはや、gimuの一を納めることによって神殿祭司を支えるよう求められていません。しかし、イエスが任命された使徒たちは、私たちが持っているもので満足し、他の人に対して寛大であるように命じています(1テモテ6:6-8、18)。使徒たちはまた、福音をよく宣べ伝える人を経済的に支え(1コリント9:14)、宣教師を経済的に支え(ローマ15:24)、貧しい人や社会的弱者を経済的に支えるように命じています(使徒11:29、ガラテヤ2:10)。
マラキの時代、旧約の民は悔い改めを通して神と和解する必要がありました。彼らは考え方や行動を変え、神の律法に従うように戻る必要がありました。しかし、悔い改めは単に考え方や行動を変えるだけではありません。誰かが悔い改めるとき、それが神に対する悔い改めであれ、罪を犯した相手に対する悔い改めであれ、相手に対する決意を新たにすることによって関係を回復することを目的としています。悔い改めは、罪を犯した相手に向かって身を乗り出すのであって、罪を犯した相手から身を乗り出そうとしたり、相手に取って代わろうとするのではありません。この場合、イスラエルの民は、神との関係を回復させるために、神への約束を新たにするよう招かれていたのです。しかし、自分がどのようにして罪深い混乱に陥ったかを知らないなら、罪が起こる前の状態に戻ることは難しいでしょう。罪深い混乱の中にいて、自分が罪を犯していることにさえ気づかないなら、なおさら困難です。イスラエルの民はそのような困難な状況にありました。神の前では、自分たちは迷ってもいないのだから悔い改める必要はないとさえ宣言していました。しかし、彼らの傲慢さと無知を嘲笑する前に、私たちも同じような状況に置かれている可能性があることを理解する必要があります。私たちは毎週日曜日に教会に行くので、自分が神から遠く離れているとは思っていないかもしれません。平日は子供たちに聖書について話しています。人々を祝福するために友情を築き、イエスについて話そうとします。なぜ私たちは、”私たちは神から遠く離れている “と考える理由があるのでしょうか?罪は私たちを真理から見えなくする傾向があるからです。幸いなことに、聖霊は聖書を通して、また他のクリスチャンを通して、私たちに聖書を思い出させてくださいます。神様御自身が、そのように私たちの霊的な状態を理解するのを助けてくださるのです。
イスラエルの民にとって、問題は単に献金が足りなかったことだけではありません。彼らの問題は彼らの考え方にありました。神が彼らを祝福してくださったのに、彼らは神に最良のものよりも少ないものを与えることを選んだのです。彼らは、余ったものや不要なものだけを神に与えたのです。それは彼らの心が邪悪であったことを示しています。
人はしばしば、お金はキリスト教とは関係ないと考えます。しかし、人々がどのようにお金を使うか、またその献金の質は、彼らが何を望んでいるか、彼らの考え方に何が起こっているかを示す指標となります。イエスは新約聖書において、律法の要件を軽減することはありません。その代わりに、イエスは新約聖書において期待を高めておられます(マタイ5:21-22、27-28)。むしろ、私たちは恵みの下にあるのですから、その要求は質的に高くなります。私たちは、イエスの完成された御業に動かされながら、献金を通して主への礼拝を示そうと努めなければなりません。神はあなたのお金を必要としているのではありません。神はあなたの心の献身にふさわしい方です。与えることを拒む心は、神の恵みの御業を拒む心であることを、神はあなたに理解してほしいのです。もしあなたが、ミニストリーの働きを支えたり、貧しい人々を支えたりするために捧げることを拒むなら、あなたは神に反抗しているのです。自分の罪を告白し、イエスがあなたの罪を贖うために死なれたことを信じ、イエスとその使徒たちに同意するように考え方を変え、キリストの復活の力によってキリストと使徒たちの命令に従って歩みなさい。
2. 邪悪な者は、無情にも神に従わないために繁栄を期待する (マラキ3:13-15)
13 あなた がた の ことば は、 わたし に対して 度 を 越し て いる。 ─ ─ 主 は 言わ れる ─ ─ あなた がた は 言う。 『私 たち が 何 と 言っ た という の です か』 と。 14 あなた がた は 言う。 『神 に 仕える のは 無駄 だ。 神 の 戒め を 守っ ても、 万 軍 の 主 の 前 で 悲しん で 歩い ても、 何 の 得 に なろ う。 15 今、 私 たち は 高ぶる 者 を 幸せ 者 と 言お う。 悪 を 行っ ても 栄え、 神 を 試み ても 罰 を 免れる』 と。」
神の民は、この書に書かれているような神に対する不満をいくつか持っていました。第五の不満は、彼らは神に仕えるために多くのことをしたのに、神は彼らに報いてくださらなかったということです。自分たちが宗教的な行いをしたからといって、神は自分たちに借りがあると、罪深く考えていたのです。同時に、彼らは悪い人々を見て、悪い人々が神に仕えていないのに、その悪い人々が繁栄しているように見えたのです。基本的に、彼らは神の望みのために身を捧げるのではなく、自分たちの利己的な望みのために神を利用しようとしていたのです。彼らの邪悪な考え方のせいで、神は自分たちの欲望を満たしてくれないので、役立たずだと考えたのです。彼らは、神を操ろうとして宗教的義務を果たしていただけなのです。彼らは、悔い改めているように見えるので、神が聞いてくださるだろうと期待して、悲しんでいるように見せかけて歩き回っていましたが、本当はそうではありませんでした。彼らは、神は互恵関係に基づいて行動してくださるという罪深い誘惑に負けていましたが、それは真実ではありません。彼らは、自分が神のために何かをしたから、神も自分のために何かしてくださるだろうと考えていたのです。それは神の働きではありません。イスラエルの民は正しいことをしているように見えましたが、動機が間違っていました。彼らは神の望みではなく、繁栄を望んだので、繁栄に生きているように見える周りの邪悪な人々に嫉妬したのです。
イスラエルの民は、宗教的な義務を果たす一方で、神を軽蔑するようになりました。律法は彼らにとって重荷になっていたのです。しかし、なぜこのようなことが起こったのでしょうか。神の旧約の律法は完全であり、イスラエル人の益となるように設計されていました。彼らは律法を愛するはずでした。律法は、彼らがどのように生きるべきかを明らかにするためのものでした。この概念は、今日の人々が律法をどのように理解しているかとは大きく異なります。人々が律法を思い浮かべるとき、人々はレッドカードを切られたり、警察官からスピード違反の切符を切られたりすることを恐れます。朝起きて、今日も律法を守るのが楽しみだと興奮気味に叫ぶ人はいません。しかし、神の旧約の律法はそのように使われるべきものだったのです。神の旧約の律法は、心から、喜びの態度で従うべきものだったのです。今日、クリスチャンと呼ばれる多くの人々でさえ、神の旧約の律法を二つの間違った教えのどちらかに従って見ています。人々が信じがちな間違った教えの一つは、反知性主義と呼ばれるものです。反知性主義とは基本的に、律法は完全に破棄され、神は恵み深い方なので、私たちには罪を犯す自由があるというものです。しかし、使徒パウロはローマ人への手紙6:1-2で、その間違った教えに強く反対しています。クリスチャンはキリストにあって自由を持っていますが、罪にふける自由はありません。クリスチャンは自分の欲望を神の欲望と一致させることになっているのですから、聖書の中で神が私たちに与えておられる命令に背き続けることはできないのです。クリスチャンと呼ばれる人たちの多くが信じているもう一つの間違った教えは、律法主義です。これは、神の命令に背かないようにするために、人間的な伝統を制定し、他の人にもそれを守るように要求する必要があるという考え方です。罪から自分を守ることは問題ではありません。しかし、自分自身を罪から守るためにガードレールを設け、そのガードレールを神の掟に従うための解決策として他の人に押し付けるなら、私たちは神の掟をあいまいにし、ガードレールに置き換えてしまうことになります。イエスは反知性主義と律法主義の両方に対して語られました(マタイ23:23-24、マタイ5:17-20)。では、神の律法に対する適切な反応とは何でしょうか?神の律法に対する正しい反応は、それに従うことです。しかし、それは私たちだけでは不可能です。旧約聖書は、律法の下ではだれも義人にはなれないことを示しています。ありがたいことに、イエス様は旧約聖書の律法を完全に守られました。
しかし、イエス様の死と葬りと復活のおかげで、私たちは今、神様の完全な律法を成就することができるのです。なぜなら、私たち自身には義がないからです。しかし、私たちが不信仰を悔い改め、イエスに信仰を置くとき、イエスは私たちにイエスの絶対的な義を与えてくださいます。キリストを信じる信仰によって、私たちはもはや義を達成するために律法に従うことを求めません。その代わりに、私たちはイエスが神の律法を成就してくださったことを信頼し、イエスとの一致のゆえに、神を畏れる心で応答し、イエスとその使徒たちの命令に従い、イエスの御名に栄光を帰すことができるのです。
3. 悔い改めた者は主を恐れ、その名をあがめる (マラキ3:16-18)
16 その とき、 主 を 恐れる 者 たち が 互いに 語り合っ た。 主 は 耳 を 傾け て、 これ を 聞か れ た。 主 を 恐れ、 主 の 御名 を 尊ぶ 者 たち の ため に、 主 の 前 で 記憶 の 書 が 記さ れ た。 17 「 彼ら は、 わたし の もの と なる。 ─ ─ 万 軍 の 主 は 言わ れる ─ ─ わたし が 事 を 行う 日 に、 わたし の 宝 と なる。 人 が 自分 に 仕える 子 を あわれむ よう に、 わたし は 彼ら を あわれむ。 18 あなた がた は 再び、 正しい 人 と 悪しき 者、 神 に 仕える 者 と 仕え ない 者 の 違い を 見る よう に なる。」
預言者マラキが神の旧約の民の悪に立ち向かったとしても、彼らの中には神を畏れる者もいました。彼らの中には、マラキが彼らに立ち向かった時、悔い改めて律法に従うことによって主に立ち帰り、神の御名を敬った者もいました。神は彼らのために思い出の巻物を書かれました。マラキはおそらく、自分が書いていた書物のことを言っているのでしょう。神が神の裁きを受けに来られるとき、神はご自分の民が正しい者と悪しき者の区別を見ることを約束されます。悪者は籾殻のように燃えて滅びますが、神の御名を敬う者には、義と癒しと自由と敵に対するあがないが与えられます(マラキ4:2-3)。
マラキが語った神の裁きは、イエスが私たちの罪のために神の怒りを受け、十字架で死なれた時に下されました(ガラテヤ1:4)。しかし、イエスは生きている者と死んだ者を裁くために再び来られると約束されました。イエスが再び来られるとき、全人類に最後の神の裁きが下されます。イエスが十字架で死なれたとき、私たちの代わりに神の怒りを吸収してくださったのですから。クリスチャンが主に対して抱く畏れは、尊敬と畏敬の念であり、その結果、私たちは主に耳を傾け、主の知恵を得るのです。新約聖書のコロサイの信徒への手紙には、私たちはイエスというお方のうちにすべての知恵を持っていると書かれています。神がどのようなお方であるかを敬い、畏敬の念を抱くことで、イエス・キリストの御姿と御言葉を受け取ることになり、その結果、イエスの教えに従うことになるのです。イエスは説教の中で、イエスの説教を拒絶するのは愚かな人であり、賢い人はイエスの教えを聞き、それに従うのだと教えられました。
今日、私たちはマラキ書を通して、悪者は個人的な繁栄を得るために献金をやめ、まるで神を操ることのできる偶像のように、互恵関係によって神と関わろうとすることを知りました。また、悔い改めた人はこれらのことをせず、イエスに対する健全な畏敬と畏敬の念を示し、イエスの教えに従うことによってイエスの御名を称えることを学びました。クリスチャンとしてどのようにマラキ書に従うべきかを考えるとき、私たちは次のような質問を自問すべきです:
– あなたの献金の習慣は、あなたの心に働いている神の恵みを現していますか?
– あなたの献金習慣は、あなたの心に働いている神の恵みを現していますか?なぜですか?
– 神を操るために、神にささげたり、従ったりしていませんか?悔い改めるためにどのようなステップを踏みますか?
– 新約聖書における神の命令は重荷だと思いますか?なぜですか?
– 恵みは罪を犯す自由を与えてくれると思いますか?悔い改めるためにどのような手段を取りますか?
– 他の人に罪を犯させないために、伝統を押し付ける必要があると思いますか?悔い改めるためにどのような手段を取りますか?
天の父なる神様、私たちは間違った考えや利己的な動機を悔い改めます。私たちが個人的な利益のためではなく、あなたを敬うために惜しみなくささげることができますように。あなたに対する健全な畏敬の念と、イエスとその使徒たちの命令に従う喜びを与えてください。私たちが自分の心を見分け、必要なところは悔い改め、あなたの変容の愛の証しとして生きることができるように助けてください。
(James 2:10-11) For whoever keeps the whole law but fails in one point has become guilty of all of it. 11 For he who said, “Do not commit adultery,” also said, “Do not murder.” If you do not commit adultery but do murder, you have become a transgressor of the law.
The book of Malachi was written near 100 years after Nehemiah had rebuilt the wall around Jerusalem and the community had gone through their religious reforms. It is the last book in the Old Testament. The book of Malachi, therefore, is a transition to the New Testament. The events in the New Testament happened a mere 400 years after the events in the book of Malachi. The point of the book of Malachi is to remind God’s people, who had once again fallen into halfhearted religion, that divine judgment comes when God’s people do not obey God’s laws, but divine blessing comes on those who obey God’s laws. The sinful temptation that God’s old covenant people were believing was that the life of faith in God is a life filled with wearisome religious burdens. This wrong way of thinking led them to sin in the way they spent money, married, raised their families, and the way they lived. The prophet Malachi wrote satirically to surprise God’s people by exposing their sins, and convincing them to change their way of thinking and what they desire, and go live according to who God is and what he has commanded, which is a better and blessed way of living.
1. The wicked stop giving to try to gain personal prosperity (Malachi 3:7-12)
From the days of your fathers you have turned aside from my statutes and have not kept them. Return to me, and I will return to you, says the Lord of hosts. But you say, ‘How shall we return?’ 8 Will man rob God? Yet you are robbing me. But you say, ‘How have we robbed you?’ In your tithes and contributions. 9 You are cursed with a curse, for you are robbing me, the whole nation of you. 10 Bring the full tithe into the storehouse, that there may be food in my house. And thereby put me to the test, says the Lord of hosts, if I will not open the windows of heaven for you and pour down for you a blessing until there is no more need. 11 I will rebuke the devourer for you, so that it will not destroy the fruits of your soil, and your vine in the field shall not fail to bear, says the Lord of hosts. 12 Then all nations will call you blessed, for you will be a land of delight, says the Lord of hosts.
God’s people needed to hear this call to repentance because they had still not changed their sinful ways. The people were failing to give to support the priests for their religious work in the temple, and they failed to help the poor in their society (Numbers 18:31; Deuteronomy 14:28-29). The giving that they were commanded to do according to the Old Covenant law was not merely financial giving. They were required to give a tenth of their agricultural produce (Lev 27:30-22; Deuteronomy 12:6, 11, 17), a tenth of their income to the priests and Levites (Numbers 18:21-32), and a third-year tithe given to those who were socially disadvantaged (Deuteronomy 14:28-29; 26:12-15). The tithes were an acknowledgement that Yahweh is God over all the earth and provides for his people. The people could also give freewill offerings, which were voluntary offerings and mandatory gifts to the Lord or his temple, including agricultural produce, material goods, or personal valuables (Exodus 25:2; 29:27; Numbers 5:9; 31:29; Deuteronomy 12:6). The freewill offerings were done as thank-offerings to God because God is good and generous. Because they failed to obey God’s laws about giving, they suffered the old covenant curses (Deuteronomy 28). If they repented, God promised to restore them and bless them according to Old Covenant promised blessings, which included sending abundant rain on the land so their agriculture would prosper, and their neighboring nations would take notice and call them blessed.
Today, we are not under the old covenant as a binding covenant per say. The Old Covenant law does come to us through Jesus, but often in new and unexpected ways. We are no longer called to support the temple priests by paying tithes. However, the Apostles that Jesus appointed commanded us to be both content with what we have, and to be generous to others (1 Timothy 6:6-8, 18). The Apostles also command us to financially support those who preach the gospel well (1 Corinthians 9:14), to financially support missionaries (Romans 15:24), and to financially support the poor and vulnerable in societies (Acts 11:29; Galatians 2:10).
In Malachi’s era, the Old Covenant people needed to reconcile with God through repentance. They needed to change their thinking and behavior, and return to obeying God’s law. Repentance is not merely a change of thinking and behavior, however, because it also involves a restoration of a relationship. When someone repents, whether it is repenting towards God or repenting towards a person they have sinned against, it aims to restore the relationship by renewing the commitment to the other person. Repentance leans in towards the person that has been sinned against, and does not seek to lean away from or replace the offended person. In this case, the Israelites were being invited to renew their commitment to God with the aim of having the relationship with God restored. However, if you’re unaware of how you got into your sinful mess, going back to where you were at before the sin occurred can be difficult. It is even more difficult if you are in a sinful mess and don’t even realize that you’re sinning. The Israelites were in such a difficult situation. Before God, they even proclaimed that didn’t need to repent because they were not even lost. But before we mock them for their arrogance and ignorance, we need to realize that we might likewise be in the same situation that they were in. We might not think that we are far from God, because we go to church every Sunday. We talk to our children about the Bible during the week. We try to build friendships to bless people and talk to them about Jesus. Why would we think that we are far away from God. And yet God might see us as having strayed from Him because sin tends to blind us to the truth. Fortunately, the Holy Spirit works through the Bible and through other Christians reminding us of the Bible. God himself helps us to understand our spiritual condition in that way.
For the Israelites, the problem wasn’t merely their lack of giving. Their problem was in their thinking. God had blessed them, and they chose to give God less than the best. They only gave God what was defective. That indicated their hearts were wicked.
People often think that money has nothing to do with Christianity. However, how people spend their money, and the quality of their giving, is an indicator about what they want, and what is going on in their thinking. Jesus does not lessen the requirements of the law in the New Testament. Instead, Jesus increases the expectation in the New Testament (Matthew 5:21-22, 27-28). Instead, because we are under grace, the demands are qualitatively higher. We should seek to show our worship to the Lord through our giving, motivated by the finished work of Jesus, and never be satisfied with a quality of giving that meets the absolute minimum. God doesn’t need your money. He deserves your heart. He wants you to understand that a heart that refuses to give is a heart that is refusing God’s work of grace upon the heart. If you refuse to give to support the work of ministry or support the poor, you are rebelling against God. Confess your sin, trust that Jesus died to atone for your sin, change your thinking to agree with Jesus and his Apostles, and walk in obedience to the commands of Christ and the apostles by the power of Christ’s resurrection.
2. The Wicked Expect Prosperity for Heartlessly Obeying God (Malachi 3:13-15)
13 “Your words have been hard against me, says the Lord. But you say, ‘How have we spoken against you?’ 14 You have said, ‘It is vain to serve God. What is the profit of our keeping his charge or of walking as in mourning before the Lord of hosts? 15 And now we call the arrogant blessed. Evildoers not only prosper but they put God to the test and they escape.’ ”
The people of God had several complaints about God that are mentioned in the book. The fifth complaint is that they had done so much to serve God, and yet God had not rewarded them. They sinfully thought that God is somehow in their debt because they did religious actions. At the same time, they looked at wicked people, and saw that the wicked were not serving God, and yet those wicked people seemed to be prospering. Basically, they were trying to use God for their own selfish desires rather than devoting themselves to God’s desires. Because of their wicked thinking, they considered God to be useless, because he wasn’t fulfilling their desires. They were merely performing their religious obligations to try to manipulate God. They walked around with the appearance of sorrow, hoping that God would hear them because of they looked like they were repenting, but they really weren’t. They had given into the sinful temptation that God will act based on reciprocity, but that is not true. They wanted God to do something for them because they had done something for God. That is not how God works. The Israelites appeared to be doing the right thing, but they had the wrong motive entirely. Because they desired prosperity, and not God’s desires, they became jealous of the wicked people around them who seemed to live in prosperity.
The Israelites had begun once again to do religious obligation but show contempt for God. The law had become burdensome to them. But how did this happen? God’s old covenant law is perfect and was designed for the good of the Israelites. They were supposed to love the law. It was meant to reveal to them how they were to live. This concept is very different from how people tend to understand the law today. When people think of the law, people dread getting red-carded or receiving a speeding ticket from a police officer. People don’t wake up and excitedly exclaim how they’re looking forward to obeying the law today. But that’s how God’s Old Covenant law was meant to be used. God’s Old Covenant law was meant to be obeyed from the heart, from a joyful attitude. Today, even many people who call themselves Christians view God’s Old Covenant law according to one of two false teachings. One false teaching that people tend to believe is called antinomianism. Antinomianism basically means that the law has been completely abrogated, and we have freedom to sin because God is gracious. However, the Apostle Paul strongly opposes that false teaching in Romans 6:1-2. Christians do have freedom in Christ, but we are not free to indulge in sin. Since God’s desires is what Christians are to want, we cannot go on disobeying the commands that he has given us in the Scriptures. The other false teaching that many people that call themselves Christians believe is legalism. This is the idea that we need to institute human traditions and demand that others keep them as well to keep from disobeying God’s commands. Guarding ourselves from sin isn’t a problem. However, when we set up guardrails to keep ourselves from sin and impose those guardrails on others as the solution to obeying God’s laws, we end up obscuring God’s law and replacing it with the guardrails. Jesus spoke against both antinomianism and legalism (Matthew 23:23-24; Matthew 5:17-20). So then, what is the proper response to God’s law? The proper response to God’s law is to obey it. However, that is impossible on our own, but we also know that Jesus made it possible. The Old Testament showed us that no one is righteous under the law. Thankfully, Jesus obeyed the Old Testament law perfectly.
However, because of the death, burial, and resurrection of Jesus, we now can fulfill the perfect law of God. It is not because of our own righteousness that we can do this, because we have no righteousness in ourselves. But when we repent of unbelief and put our faith in Jesus, he gives us Jesus’s absolute righteousness. By faith in Christ, we no longer look to obeying the law to achieve our righteousness. Instead, we can trust that Jesus fulfilled the law of God, and because of our unity to him, we can respond with a heart of reverent fear for God, bringing glory to Jesus’s name as we obey his and his apostles’ commands, which are the law of God brought forward to us today in the new covenant.
3. The repentant fear the Lord and glorify his name (Malachi 3:16-18)
16 Then those who feared the Lord spoke with one another. The Lord paid attention and heard them, and a book of remembrance was written before him of those who feared the Lord and esteemed his name. 17 “They shall be mine, says the Lord of hosts, in the day when I make up my treasured possession, and I will spare them as a man spares his son who serves him. 18 Then once more you shall see the distinction between the righteous and the wicked, between one who serves God and one who does not serve him.
Even though the prophet Malachi was confronting the wickedness among God’s old covenant people, there were still some people who feared God among them. Some of them had returned to the Lord by repenting and obeying the law when Malachi confronted them, and they honored God’s name. God writes a scroll of remembrance for them. Malachi is probably talking about the book he was writing. When God comes in divine judgment, he promises that his people will see the distinction between the righteous and the wicked. The wicked will burn like chaff and be destroyed, but those who revere God’s name will be given righteousness, healing, freedom, and vindication over their enemies (Malachi 4:2-3).
The divine judgment that Malachi spoke of came when Jesus died on the cross, when he suffered God’s wrath for our sins (Galatians 1:4). However, Jesus has promised to come again to judge the living and the dead. When he comes again, he will bring the final divine judgment upon all mankind. Until that time, it is the responsibility of Christians not to cringe in fear of God’s wrath towards us, because Jesus absorbed God’s wrath in our stead when he died on the cross. The fear that believers have for the Lord is one of respect and awe, resulting in us listening to the Lord and gaining his wisdom. In the New Testament letter to the Colossians, we are told that we have all wisdom in the person of Jesus. This reverence and awe of who God is, and thus receiving the person and words of Jesus Christ results in obeying the teachings of Jesus. In his sermons, Jesus taught that it is the foolish man that rejects the sermons of Jesus, but the wise man hears his teachings and obeys them.
Through the book of Malachi, today we have seen that the wicked stop giving in order to gain personal prosperity, and they try to relate to God via reciprocity as if God is like an idol that can be manipulated. We also learned that the repentant do neither of these things, but instead they show a healthy reverence and awe of Jesus and glorify his name by obeying his teachings. As we think through how to obey the book of Malachi as Christians, we should ask ourselves the following questions:
- Do your giving habits reveal God’s grace at work in your heart?
- Do you have a healthy reverence and awe of God, or are you afraid of God? Why?
- Do you give or obey God to manipulate him? What steps will you take to repent?
- Do you think that God’s commands in the New Testament are burdensome? Why?
- Do you believe that grace gives you freedom to sin? What steps will you take to repent?
- Do you believe that you need to impose traditions on others to keep them from sinning? What steps will you take to repent?
Heavenly Father, we repent for any wrong thinking and selfish motives. May we give generously, not for personal gain, but to honor you. Grant us a healthy reverence for you and joy in obeying the commands of Jesus and his Apostles. Help us discern our hearts, repent where needed, and live as a testimony to your transformative love.